瀬名姫を辿るコース ~車でめぐる編~
音声ガイドを聞きながら岡崎をめぐろう!瀬名姫は徳川家康公の正室。築山という地に居を構え暮らしていました。ゆかりの地を辿ります!
おすすめの季節
日帰り
START
1
-
おかざきじょう
岡崎城
-
岡崎城は徳川家康公が生まれた城として有名です。
1959年には天守が3層5階建てに復興され、2006年には日本100名城に選定されました。
車で15分
2
-
だいじゅじ
大樹寺
-
松平家・徳川将軍家の菩提寺で、文明7年(1475)松平家4代親忠公により勢誉愚底上人が開山しました。
かつて桶狭間の戦いで敗れた家康公が岡崎へ逃げ帰った際、大樹寺の周りを敵に取り囲まれこれまでと自害を試みた時、住職から「厭離穢土欣求浄土、汚れた世を正し太平の世を目指す」との教えを受け切腹を思いとどまったことから、家康公再起の場として歴史的にも大きな役割を果たしたお寺。
境内にはその際に家康公が佇まれたと云われる松平家8代の墓や、国の重要文化財であり家康公の祖父・松平清康公が天文4年(1535)に建立した多宝塔などがあります。
また3代将軍家光公建立の山門を起点に岡崎城と大樹寺を結ぶ約3kmの直線は歴史的眺望「ビスタライン」と呼ばれ、約380年間守られてきた岡崎を代表する景観として知られています。
本堂内の拝観受付奥から始まる大方丈・位牌堂拝観ルートでは、「将軍御成りの間」に描かれた幕末の大和絵師・冷泉為親作「襖絵(障壁画)」の精巧な復元画や、桶狭間の戦い後に大樹寺に逃げ込んだ家康公を守ったかんぬきを厨子にいれ祀った「貫木神」、歴代将軍家等身大位牌や、家康公73歳の時の木像などが拝観できます。
車で5分
3
-
うなぎとわしょくおぎの
鰻と和食 おぎ乃
-
旅先に出かけた時は、ちょっとでも美味しい食事をしたいなぁと思いませんか?
岡崎城より15分、店ののれんをくぐると、鰻を焼いている香ばしい匂い包まれます。店の外には、専用の桶に入った元気な鰻がお客様のご来店を今かと待っています。ご注文があってから丁寧に捌き、当店独自の手法でじっくり焼き上げていきます。
毎日鰻を焼き続けている、これぞ職人の技。紀州備長炭の強い火力で、外はパリッと中はふわぁっとした食感、創業90余年、愛知が誇る一色産の鰻を秘伝のたれでお楽しみください。
お席のご予約承っております。
車で15分
4
-
そうじにじ・つきやまいなり
総持尼寺・築山稲荷
-
永禄3年(1560)の桶狭間の戦い後に、瀬名姫が岡崎城外の"築山"に居住・生活していたことから、瀬名姫は「築山殿」と呼ばれるようになりました。「総持尼寺」はほぼ廃寺寸前だった昭和5年(1930)に「築山稲荷」とともに現在の場所へ移りました。
車で6分
5
-
やはしらじんじゃ
八柱神社
-
家康公の長男信康公は、織田信長の娘徳姫と結婚し、家康が浜松に移った元亀元年(1570)に岡崎城主となりました。
信長は、信康公の母築山御前が今川方の出身であり、武田方と内通しているとの嫌疑をかけ、築山御前と信康公の処断を家康公に迫りました。
家康公も助命のために努力をしましたが果たせず、信康公は自刃、築山御前は殺害されてしまいました。
八柱神社には築山御前の首塚が、若宮八幡宮(朝日町)には信康公の首塚があります。
車で5分
6
-
ゆうでんじ
祐傳寺
-
祐傳寺には、信長の命により殺害されたとされる徳川家康の正室、築山殿の首塚があります。築山殿は長男、信康の正室で信長の娘、徳姫の訴えが元となり浜松近くの小藪村で殺害されてしまいます。築山殿の首は信長の実検を受けた後、徳川家康の家臣・石川数正がその首を持ち帰りこの祐傳寺に葬ったとされています。
車で5分
7
-
わかみやはちまんぐう
若宮八幡宮
-
八柱神社に家康公の妻築山御前の首塚があるのに対して、ここ若宮八幡宮には長男信康公の首塚があります。
信康公は天正7年(1579)に二俣城内で「我れ天道に逆らって父に謀反し勝頼に一味するという汚名こそ死出の防げぞ。このことだけは父上によく聞こえ上げてくれよ」と言い残して21歳の若さで自刃しました。
その後重臣石川数正が岡崎城代となりましたが、信康公の死後岡崎城内には怪異現象が度重なったとされ、この境内に供養塔の首塚を建て丁寧に合祀されました。
車で28分
8
-
ほうぞうじ
法蔵寺
-
家康公が幼少のころ、手習いや漢籍などの学問に励んだと伝えられる寺で、硯箱・硯石・手本・机・墨付小袖・破魔弓など家康公幼少期の品のほか、境内には六角堂開運勝利観音・東照権現宮・家康公ゆかりの草紙かけ松・おてならい井戸・お手植えの桜などの文化財も多く現存しています。
桶狭間の合戦後、家康公はこの寺に守護不入の特権を与えるなどして優遇しました。
東照宮下の中腹付近には、家康公縁者の霊廟や家康公の三大危機の一つといわれる三方ヶ原の合戦忠死者の墓があり、中には合戦の際、家康公の身代わりとなり討たれた夏目次郎左衛門吉信の墓もあります。
さらにその向かいには、新撰組隊長近藤勇のものと伝わる首塚もあります。
新撰組局長の近藤勇は、明治元年東京板橋で斬首されました。
京都三条大橋西に晒された首を同士が持ち出し、近藤が生前敬慕していた京都誓願寺住職に託した後、住職が転任した法蔵寺に運ばれました。
当初は、石碑を土で覆い、ひっそりと弔ったといわれています。
GOAL
MAP