幾多の危機に見舞われながらも、天下人としての土台を築いた 岡崎時代の徳川家康
戦国乱世を制し、その後、約260年間にわたって続く太平の世を築いた徳川家康の生誕地・岡崎。
家康は生まれ故郷のこの地で、どのような時を過ごしたのでしょうか。
実は生涯のなかでも一番危険な時代だったともいわれる家康の岡崎時代に焦点を当て、のちに天下人として羽ばたく土台がどのように育まれたのかをご紹介します。
織田と今川がせめぎ合う最前線の地・岡崎に生まれる
幼名は竹千代。
竹千代が産まれた頃の岡崎は、西から織田氏の勢力と、東から今川氏の勢力がせめぎ合い、熾烈な争いを繰り広げていました。
竹千代が3歳の時には、母の於大の実家・水野氏が織田方についたため、今川氏の援助を受けていた父の広忠は於大を離縁。
竹千代は母と生き別れになってしまいます。
また、竹千代が6歳の頃には、広忠が織田信秀(信長の父)に降伏したため、人質として尾張(現在の愛知県西部)へと送られましたが、8歳になる頃には、今川方に捕らえられた織田信秀の長男・信広との人質交換によって駿府(現在の静岡市)へ移されました。
家康の幼少期は、周囲の大国に翻弄される日々を過ごしたのでした。
織田氏と今川氏が激戦を繰り広げた 小豆坂古戦場
家康が産まれた頃の岡崎城は、織田方の攻勢にあって周囲から孤立した状態にありましたが、松平家待望の跡継ぎが産まれたことで城内は活気づきました。
家康が産まれた日の朝には、城下にある龍ヶ井から金色の龍が昇天したという伝説もあるように、家康の誕生は岡崎の希望となったのです。
岡崎公園には家康誕生時に産湯を使ったという「東照公産湯の井戸」や、家康のへその緒、胎盤を埋めたとされる「東照公えな塚」など、家康生誕にまつわる史跡が今も残されています。
家康誕生にまつわる昇竜伝説が残る 龍城神社
竹千代は今川一門の幹部候補だった!?
竹千代は8歳から19歳までの少年期を今川氏の人質として、駿府で過ごしました。
人質というと惨めな暮らしを想像するかもしれませんが、実際には岡崎城主松平家の嫡男として尊重され、将来の幹部候補として英才教育を施されていました。
今川家の当主・義元は自らの師でもあり、軍師を務める臨済寺の太原雪斎という禅僧を竹千代につけ、一流の教養と武芸を身に付けさせたのでした。
立派に成長した竹千代は、14歳で元服。
烏帽子親となった今川義元から「元」の字をもらって松平元信と名乗り、今川家の重臣・関口氏純の娘(のちの築山殿)を娶るなど、今川一門衆としての地位を確立していきます。
初陣は17歳でした。
これに際し、元信は尊敬する祖父・松平清康から「康」の字をもらって松平元康と名乗り、今川方から織田方に寝返った三河の寺部城を攻めて見事戦功をあげ、義元から褒美を与えられています。
家康初陣の際に必勝祈願した神社 山中八幡宮
桶狭間の合戦で、いきなり窮地に…
今川一門衆の武将としてスタートを切った元康ですが、永禄3(1560)年に起きた桶狭間の合戦でいきなり窮地に立たされます。
今川の先鋒として、最前線の基地であった大高城への兵糧入れを敢行し、翌日も織田方の丸根砦を攻め落とすなど奮闘していた元康のもとに、今川義元が織田信長に討たれたという知らせが届いたのです。
大将を討ち取られた今川方は総崩れとなり、最前線にあった大高城は敵中に孤立してしまいました。
城にとどまれば織田方に包囲されるのは必至という状況で、元康は夜陰に紛れ大高城を脱出。
岡崎にある松平家の菩提寺・大樹寺まで退却を図ります。
30数名いた家臣たちともそこで落ち合うことができましたが、すぐに織田方の追手の兵に囲まれ、元康は先祖の墓の前で腹を切る覚悟を決めます。
そこへ現れたのが、大樹寺の貫主・登誉上人です。
上人からのちに家康の旗印となる「厭離穢土 欣求浄土(穢れたこの世に、浄土のような平和な世界を築くことを目指せ)」という教えを授けられ自害を思いとどまった元康は、武人として生きる決意を新たにしたといいます。
松平家の守護神の使いである鹿が、家康を岡崎まで導いた伊賀八幡宮
家康が戦国大名として生きる決意を固めた場所 大樹寺
織田方の追手が大樹寺を取り囲んだ際、300名ほどの僧たちが元康と力を合わせて必死に戦いました。
なかでも祖洞了傅と呼ばれる僧は、2メートルほどあった門の貫抜を振り回して追手を退けたといいます。
しかし、この戦いでは100名近くの僧が命を落とし、その亡骸が西光寺の大衆塚に葬られています。
家康を守った僧たちの亡骸が眠る西光寺(大衆塚)
故郷へ帰還するも、まわりは敵だらけ。どうする?元康
大樹寺で難を逃れた元康は、その後、岡崎城へ入城。
故郷への帰還を果たします。
そして休む間もなく周囲の織田方の城へ攻勢をかけると、電光石火の勢いで西三河を制圧。
母方の水野氏が拠点とする尾張国刈谷にまで攻め込みました。
同時に、今川義元の跡を継いだ氏真へ、義元公の弔い合戦をしようと催促しますが、氏真は関東に攻め込んできた上杉謙信に対応している同盟国・小田原北条氏に援軍を出すのが精一杯で、三河戦線には兵を出しませんでした。
今川に見捨てられた元康は、自らの存立を図るために織田方の叔父・水野信元を介して織田と和睦。
今川方が守る東三河へと侵攻し、今川に見切りを付けると、永禄5(1562)年には、元康自らが尾張国清須へ赴いて、織田信長と「清洲同盟」と呼ばれる盟約を結びました。
翌永禄6(1563)年には、元康の長男・竹千代(のちの松平信康)と信長の娘・徳姫が婚約。
さらに、元康は今川義元からもらった「元」の字を捨て、憧れていた源氏の棟梁・源義家から「家」の字をもらい家康と改名したのでした。
清州同盟で結ばれた両者の関係性は、歴史上、家康が信長に従属していたように見えますが、当初は対等なものでした。
しかし、家康が強大な隣国・甲斐の武田信玄・勝頼父子との戦いに苦しめられるなかで、信長のバックアップを必要とする状況が増え、次第に従属関係へと変化していったと考えられています。
その後、信長が畿内へと勢力を伸ばし、天下布武を視野に入れるようになると、信長の最も古い同盟者として、家康の地位も名声も全国に鳴り響きます。
そんな同盟関係が、信長存命中は壊れなかったことが、家康の天下統一に大きく貢献しているといえるでしょう。
三河一向一揆で家臣団が分裂。人生最大の危機に
信長と同盟を結び、三河統一に邁進する家康にさらなる危機が訪れます。
永禄6(1563)年、「三河一向一揆」と呼ばれる一向宗徒による一揆が勃発。
この頃、三河平定に向けて戦いに明け暮れていた家康は、軍資金や兵糧米を調達するために、一向宗の寺院に借銭借米を申し入れていましたが断られ、それをきっかけにしたいさかいが起こるようになっていました。
また当時、「三河三ヶ寺」と呼ばれ、勢力を誇った上宮寺(上佐々木町)、勝鬘寺(針崎町)、本證寺(安城市野寺町)には、境内や寺領での年貢が免除されたり、警察権の介入を許さないなどの「守護使不入」という特権が認められていましたが、それを破っていさかいを起こした相手を家康の家臣が取り締まりに行った結果、一揆へと発展したのでした。
家臣の中にも一向宗信者がいたため、彼らは主君を取るか、信仰を取るかという選択を迫られ、家康と戦うことを選んだ者もいました。
これによる家臣団の分裂は避けられず、人生最大の危機に瀕した家康。
しかし、幸いしたのはお互い顔見知りであったため、血で血を洗うような本格的な戦闘には発展せず、結局一揆は不入権の確認と、一揆に参加した家臣の赦免といった条件を家康が認めたことで鎮められました。
まもなく家康は、一向宗寺院に対し、浄土宗への改宗を迫りました。
ですが、これは拒否されます。
すると家康は、一向宗寺院を破却、僧侶たちを追放処分とし、一向宗禁令を布告したのです(ただし、個々の民衆が信仰を続けることは許されました)。
そして、この一揆に同調し反乱を起こしていた今川寄りの家臣たちは追放され、残った家臣団の結束はより強固なものになっていきます。
さらに災い転じて福となす状況となったのは、この戦いで一向宗の寺院の多くが焼失、解体されてしまったことから、それまで特権が認められていた寺領で商いを行っていた商人たちが岡崎城下へと集まってくるようになり、岡崎城下が三河経済の中心地となったことでした。
三河一向一揆の拠点となった上宮寺
勝鬘寺
三河一向一揆を辿るモデルコース
戦いに明け暮れながら、実力をつけていった岡崎時代
三河一向一揆を鎮圧した家康は、東三河に残っていた今川方の勢力を平定し、永禄7(1564)年、見事三河統一を果たしました。
この後、家康は三河より東の遠江(現在の静岡県西部)への侵攻を開始し、今川氏真や武田信玄との戦いを繰り広げながら、元亀元(1570)年に浜松城へ居城を移すまでの10年間を岡崎で過ごしました。
岡崎時代の徳川家康は、家臣たちとの関係に悩み、また自らの存立を図るために戦いに明け暮れた時代でした。
そして、目の前に現れる試練と全力で向き合いながら、運を味方につけて、のちの飛躍のための実力をしっかりと蓄えていった。
そんな時代だったのではないでしょうか。
皆様も岡崎に来て、若き日の家康の奮闘ぶりに思いを馳せてみてはいかがでしょう。
家康出生の城 岡崎城
家康の一代記から、家康を支えた三河武士の活躍がまるごとわかる!「三河武士のやかた家康館」
本記事の監修
本記事は、2023年大河ドラマ「どうする家康」において時代考証を担当された、平山 優氏の監修のもと、制作されています。
平山優(ひらやま・ゆう)
昭和39(1964)年東京都新宿区生まれ。立教大学大学院文学研究科博士前期課程史学専攻(日本史)修了。専攻は日本中世史。山梨県埋蔵文化財センター文化財主事、山梨県史編纂室主査、山梨大学非常勤講師、山梨県教育庁学術文化財課主査、山梨県立博物館副主幹を経て、現在山梨県立中央高等学校(定時制)教諭。2016年放送のNHK大河ドラマ「真田丸」、2021年の映画「信虎」、2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」の時代考証担当。主要著書に、『戦国大名領国の基礎構造』(校倉書房、1999年)、『川中島の戦い』上・下巻(学研M文庫、2002年)、『天正壬午の乱 増補改訂版』(戎光祥出版、2015年)、『長篠合戦と武田勝頼』、『検証長篠合戦』(吉川弘文館、2014年)、『武田氏滅亡』(角川選書、2017年)など多数。