【若き日の家康公の足跡をめぐる小旅行】家康行列をより楽しめる!!後編は、家康公の人生に大きな影響を与えた「言葉」と「人」にまつわるスポットをご紹介します
『家康公再起の地「大樹寺」』
松平家・徳川家の菩提寺となっている大樹寺は、松平家4代親忠により建立されました。
家康公19才の時、桶狭間の戦いから逃げ帰り、先祖である松平家八代のお墓の前で切腹しようとした時、
当時の13代住職登譽上人(とうよしょうにん)から「厭離穢土、欣求浄土(おんりえど、ごんぐじょうど)~戦国乱世を住みよい浄土にするのがお前の役目~」の言葉をいただき思いとどまったとされています。
家康公はこの八文字を終生大切にしていたと言われ、ここ大樹寺以外の場所でも目にすることができます。
境内奥にある松平家八代のお墓の周りは、鬱蒼と木々が生い茂っており、夏でもひんやりとした空気がなんだか不思議な感じがします。
ぜひ、お墓参りとともにその臨場感を体験してみてください。
そして、追ってきた織田軍を迎え撃ったとされる祖洞和尚(そどうおしょう)が使った総門の閂は、「貫木神(かんぬきじん)」として大樹寺内に祀られています。
有料拝観ルートでは、貫木神や徳川家歴代将軍の等身大位牌や江戸時代の大和絵師冷泉為恭(れいぜいためちか)が描いた障壁画の精巧な複製を設えた「将軍御成りの間」などを見ることができます。
また、境内にある多宝塔(たほうとう)は、家康公の祖父松平清康公が天文4年:室町時代後期に建てたとされ、その頃の意匠が良くわかる造りとなっています。
境内においては唯一の室町時代の遺構であり、国の重要文化財に指定されています。
家康公が見られたであろう景色の前に佇むと、私たちの心も穏やかになり時の流れを感じることができました。
バスでお越しの場合は、「大樹寺」バス停から徒歩10分程です。
お気をつけてお越しくださいね。
家康公19才の時、桶狭間の戦いから逃げ帰り、先祖である松平家八代のお墓の前で切腹しようとした時、
当時の13代住職登譽上人(とうよしょうにん)から「厭離穢土、欣求浄土(おんりえど、ごんぐじょうど)~戦国乱世を住みよい浄土にするのがお前の役目~」の言葉をいただき思いとどまったとされています。
家康公はこの八文字を終生大切にしていたと言われ、ここ大樹寺以外の場所でも目にすることができます。
境内奥にある松平家八代のお墓の周りは、鬱蒼と木々が生い茂っており、夏でもひんやりとした空気がなんだか不思議な感じがします。
ぜひ、お墓参りとともにその臨場感を体験してみてください。
そして、追ってきた織田軍を迎え撃ったとされる祖洞和尚(そどうおしょう)が使った総門の閂は、「貫木神(かんぬきじん)」として大樹寺内に祀られています。
有料拝観ルートでは、貫木神や徳川家歴代将軍の等身大位牌や江戸時代の大和絵師冷泉為恭(れいぜいためちか)が描いた障壁画の精巧な複製を設えた「将軍御成りの間」などを見ることができます。
また、境内にある多宝塔(たほうとう)は、家康公の祖父松平清康公が天文4年:室町時代後期に建てたとされ、その頃の意匠が良くわかる造りとなっています。
境内においては唯一の室町時代の遺構であり、国の重要文化財に指定されています。
家康公が見られたであろう景色の前に佇むと、私たちの心も穏やかになり時の流れを感じることができました。
バスでお越しの場合は、「大樹寺」バス停から徒歩10分程です。
お気をつけてお越しくださいね。
『瀬名姫が“築山御前”と呼ばれる由来となった神社仏閣』
家康公は、大樹寺で「厭離穢土、欣求浄土」の言葉を授かる約3年前、はじめての正室を迎えます。
今川家家臣・関口氏純の娘の瀬名姫です。
なぜ瀬名姫は “築山御前” “築山殿”と呼ばれるようになったのか。
それは、彼女が岡崎で生活していた地名に由来するといわれています。
かつて岡崎城・東の総門、現在の康生通南三丁目の辺りに「築山稲荷」という格式高い神社があり、その周辺は"築山”と呼ばれていました。
築山御前が、人質交換で駿河から岡崎に移り住んだ際、まず居住したのがこの築山の地の「総持尼寺(総持寺)*」の辺りだったといいます。そのため、彼女が住んでいた場所の名をとって“築山御前”と呼ばれました。
*「そうじにじ(そうじじ)」
「築山御前は岡崎城に入れてもらえず孤立した」という描かれ方をされることもありますが、実際のところは岡崎城から徒歩15分ほどでたどりつける、由緒ある立派な尼寺の一角で生活していたそうです。
江戸時代には、総持尼寺と築山稲荷のどちらも栄えましたが、神仏分離の発令により明治以降は徐々に衰退。結局は、大正時代に市街地整備により中町に移築されます。
移築前の場所は、太平洋戦争でアメリカ軍による岡崎市への大規模空襲“岡崎空襲”の際に被害を受けましたが、移築のおかげで現在の姿をとどめることができ、時代が令和に移った今でも、総持尼寺と築山稲荷は丘の上から平和な岡崎の街を見守っています。
心穏やかに手を合わせたい場所です。
今川家家臣・関口氏純の娘の瀬名姫です。
なぜ瀬名姫は “築山御前” “築山殿”と呼ばれるようになったのか。
それは、彼女が岡崎で生活していた地名に由来するといわれています。
かつて岡崎城・東の総門、現在の康生通南三丁目の辺りに「築山稲荷」という格式高い神社があり、その周辺は"築山”と呼ばれていました。
築山御前が、人質交換で駿河から岡崎に移り住んだ際、まず居住したのがこの築山の地の「総持尼寺(総持寺)*」の辺りだったといいます。そのため、彼女が住んでいた場所の名をとって“築山御前”と呼ばれました。
*「そうじにじ(そうじじ)」
「築山御前は岡崎城に入れてもらえず孤立した」という描かれ方をされることもありますが、実際のところは岡崎城から徒歩15分ほどでたどりつける、由緒ある立派な尼寺の一角で生活していたそうです。
江戸時代には、総持尼寺と築山稲荷のどちらも栄えましたが、神仏分離の発令により明治以降は徐々に衰退。結局は、大正時代に市街地整備により中町に移築されます。
移築前の場所は、太平洋戦争でアメリカ軍による岡崎市への大規模空襲“岡崎空襲”の際に被害を受けましたが、移築のおかげで現在の姿をとどめることができ、時代が令和に移った今でも、総持尼寺と築山稲荷は丘の上から平和な岡崎の街を見守っています。
心穏やかに手を合わせたい場所です。
『築山御前に想いを馳せる八柱神社』
欠町にある「八柱神社」では、築山御前の首塚を見ることができます。
築山御前は数え年38才のときに、家康公の命により暗殺されたとされています。織田信長に送られた築山御前の首を家康公家臣・石川数正が持ち帰り、直後は岡崎市役所近くの「祐傳寺(ゆうでんじ)」に埋葬されました。江戸時代になると、岡崎城下の拡大工事のために寺が移築されたこともあり、現在の八柱神社に祀られました。
境内を奥に進むと目に入る五輪塔が、昭和52年に神社の氏子さんによって改築された、現在の築山御前の首塚です。
首塚の側にある石碑には、“されど主害に値するほどの罪悪であっただろうか。” “戦国の世とはいへ、信長公の権威を恐れ我が妻我が子を亡した家康公の心中いかならん、あまりにもむごく悲しい出来事である。” ”当神社の氏子一同築山御前の御霊が安かれと御首塚を改築する。”と記してあり、築山御前の非業の死を偲び、極楽浄土に往生することを願って首塚が改葬されたことが読み取れます。
その手前にある小さな塚が、祐傳寺から改葬された当時建てられた古い首塚です。
林の中にひっそりと佇む新旧の首塚は、地元の方により手厚く守られ続けています。
築山御前が亡くなられたのは佐鳴湖畔であり、岡崎からは遠い場所にあります。
それにも関わらずこの岡崎の地に首塚が築かれたということは、築山御前にとって岡崎がどれほど特別な場所だったかを示すお話だといえるのではないでしょうか。
八柱神社の御朱印を希望の方は、近くの岡崎天満宮の授与所で授かることができます。
築山御前は数え年38才のときに、家康公の命により暗殺されたとされています。織田信長に送られた築山御前の首を家康公家臣・石川数正が持ち帰り、直後は岡崎市役所近くの「祐傳寺(ゆうでんじ)」に埋葬されました。江戸時代になると、岡崎城下の拡大工事のために寺が移築されたこともあり、現在の八柱神社に祀られました。
境内を奥に進むと目に入る五輪塔が、昭和52年に神社の氏子さんによって改築された、現在の築山御前の首塚です。
首塚の側にある石碑には、“されど主害に値するほどの罪悪であっただろうか。” “戦国の世とはいへ、信長公の権威を恐れ我が妻我が子を亡した家康公の心中いかならん、あまりにもむごく悲しい出来事である。” ”当神社の氏子一同築山御前の御霊が安かれと御首塚を改築する。”と記してあり、築山御前の非業の死を偲び、極楽浄土に往生することを願って首塚が改葬されたことが読み取れます。
その手前にある小さな塚が、祐傳寺から改葬された当時建てられた古い首塚です。
林の中にひっそりと佇む新旧の首塚は、地元の方により手厚く守られ続けています。
築山御前が亡くなられたのは佐鳴湖畔であり、岡崎からは遠い場所にあります。
それにも関わらずこの岡崎の地に首塚が築かれたということは、築山御前にとって岡崎がどれほど特別な場所だったかを示すお話だといえるのではないでしょうか。
八柱神社の御朱印を希望の方は、近くの岡崎天満宮の授与所で授かることができます。
『大樹寺と岡崎城をつなぐ“ビスタライン”と“大樹寺小学校”』
話は戻り大樹寺にはもうひとつ、重要な見所があります!
大樹寺の門から真っ直ぐに岡崎城を臨むことができる「ビスタライン」です。
ビスタラインとは、岡崎城と大樹寺を結ぶ約3kmの直線のことで、歴史的眺望として約380年間守られています。
これは徳川三代将軍家光が、大樹寺の伽藍の大造営を行う際、「祖父生誕の地を望めるように」と本堂から三門、総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して、その真中に岡崎城が望めるように伽藍を配置したことに由来しています。
この歴史的眺望を守るために、住民のご厚意で高層ビルやマンション建設をしていないというのは、岡崎市民のプライドや誇りを感じます。
また大樹寺小学校の生徒は、校舎と体育館を行き来する際にビスタラインの景観を守るため半地下に造られた通路を渡って移動するなど、小学生の時からビスタラインを身近に感じながら生活しています。
家康公の遺言で位牌が安置された大樹寺から、泰平となった岡崎城を望めるように守られ続けたビスタライン。その楽しみ方は眺めるだけではありません。
三門から岡崎城を望んだ後は、道路に打ってあるビスタライン鋲を探しながらウォーキングをすることもできます。よく目を凝らして見ると、100個前後の鋲を見つけることができますよ!
探しながら歩く際には周囲の安全に十分注意してくださいね。
大樹寺の門から真っ直ぐに岡崎城を臨むことができる「ビスタライン」です。
ビスタラインとは、岡崎城と大樹寺を結ぶ約3kmの直線のことで、歴史的眺望として約380年間守られています。
これは徳川三代将軍家光が、大樹寺の伽藍の大造営を行う際、「祖父生誕の地を望めるように」と本堂から三門、総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して、その真中に岡崎城が望めるように伽藍を配置したことに由来しています。
この歴史的眺望を守るために、住民のご厚意で高層ビルやマンション建設をしていないというのは、岡崎市民のプライドや誇りを感じます。
また大樹寺小学校の生徒は、校舎と体育館を行き来する際にビスタラインの景観を守るため半地下に造られた通路を渡って移動するなど、小学生の時からビスタラインを身近に感じながら生活しています。
家康公の遺言で位牌が安置された大樹寺から、泰平となった岡崎城を望めるように守られ続けたビスタライン。その楽しみ方は眺めるだけではありません。
三門から岡崎城を望んだ後は、道路に打ってあるビスタライン鋲を探しながらウォーキングをすることもできます。よく目を凝らして見ると、100個前後の鋲を見つけることができますよ!
探しながら歩く際には周囲の安全に十分注意してくださいね。
『まとめ』
最後まで読んでいただきありがとうございます。
家康行列を楽しむためのエッセンスになれば幸いです。
また、番外編として「上宮寺(じょうぐうじ)」と「浄珠院(じょうじゅいん)」でお聞きした、“家康公と一向一揆”のお話も近日公開予定です!
気になったスポットに、ぜひ足を運んでみてください。岡崎でお待ちしてます!
2023観光大使おかざき
平岩里菜
塩沢柚衣
家康行列を楽しむためのエッセンスになれば幸いです。
また、番外編として「上宮寺(じょうぐうじ)」と「浄珠院(じょうじゅいん)」でお聞きした、“家康公と一向一揆”のお話も近日公開予定です!
気になったスポットに、ぜひ足を運んでみてください。岡崎でお待ちしてます!
2023観光大使おかざき
平岩里菜
塩沢柚衣