家康を支えた三河譜代の四天王
岡崎時代から家康を支えた三河譜代と呼ばれる家臣団は、結束力が強く忠義心が厚いといわれていますが、彼らは実際どのような働きをして家康の天下取りに貢献していったのでしょうか。
「三河武士のやかた家康館」でも取り上げている「徳川四天王」の活躍ぶりについてご紹介します!
信長との連絡役を務めた家老・酒井忠次
人質となった家康に従い駿府時代をともに過ごした忠次は、家康の叔母(広忠の妹)を妻にしたことから、家康にとっては家臣というより、気心知れた一門衆のような存在だったかもしれません。
酒井家は当初、忠次の叔父にあたり、将監と呼ばれた酒井忠尚が松平家の重鎮として君臨していましたが、永禄6(1563)年に起きた三河一向一揆に際し、忠尚は家康に反旗を翻して失脚したため、忠次が酒井家の本流となり家康を支えました。
永禄8(1565)年に家康が三河を統一した際には、忠次が吉田城(愛知県豊橋市)城主となり、旗頭(家老)として東三河の家臣団をまとめる役割を与えられています。
忠次の軍功として最も有名なのは、天正3(1575)年に織田・徳川連合軍が武田勝頼と戦った長篠・設楽原の戦いにおける鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)の攻撃でしょう。
この時、忠次は信長に奇襲を進言すると、この策が見事に当たり、武田軍に大打撃を与えることに成功しました。
これ以降、信長に気に入られた忠次は、家康と信長の連絡役を務めるようになりますが、天正7(1579)年に家康の正室・築山殿と嫡男・信康が武田との内通を疑われた際、信康を弁護することができず、家康との関係性にしこりを残したともいわれています。
酒井忠次は、松平家に仕えた譜代家臣・酒井忠親の次男として井田城に産まれました。
忠親が居城とした井田城は、松平氏の居城である岡崎城と菩提寺である大樹寺との間を直線上に結んだ間の地にあり、このことからも酒井氏と松平氏が代々親しい関係性にあったことが伺えます。
周辺には忠次の6代前にあたる酒井氏の始祖・酒井広親の石宝塔もあるので、歴史散策がお好きな方は出かけてみてはいかがでしょう。
所在地/岡崎市井田町城山(井田城址)岡崎市岩津町字申堂15-1(酒井広親石宝塔)
家康の側近として活躍するも、のちに出奔・石川数正
一般的に徳川四天王に数えられている遠江(静岡県西部)出身の井伊直政に代わって、三河譜代の四天王として挙げられるのは、駿府時代から家康の側近として仕えた石川数正でしょう。
石川家は代々松平家に仕えた重臣の家柄で、数正の祖父・石川清兼は家康が産まれた際、魔除けのための「蟇目(ひきめ)の矢」を射る重要な役割を務めていました。
数正の功績としてよく知られているのは、永禄3(1560)年の桶狭間合戦のあと、家康が今川氏からの独立を図った際に、今川方の人質となっていた家康の正室・築山殿と長男の竹千代(のちの松平信康)らを、今川氏真と交渉して取り戻したことです。
その後、家康が三河を統一すると、数正の叔父である石川家成が西三河の家臣団をまとめる旗頭(家老)となりましたが、家康の遠江侵攻に伴って家成が遠江掛川城城主となったため、家成の甥にあたる数正が西三河の旗頭(家老)として抜擢されました。
また、天正10(1582)年に本能寺の変で織田信長がこの世を去ったあとは、羽柴秀吉との交渉役を数正が務めました。
しかし、天正12(1584)年に秀吉との直接対決となった小牧・長久手の戦いに際して、様々な交渉事を通じ秀吉の強さを知っていた数正が和議を進言したのに対し、徹底抗戦を主張した他の重臣たちとの間に軋轢を生み、数正は次第に孤立するようになります。
翌年、数正は岡崎城を出奔し、秀吉から信濃松本を与えられて、のちに国宝に指定される松本城を築きました。
石川和正墓所(本宗寺)
12月に行われる「家康公生誕祭」では蟇目の矢を実演
三河統一を果たした家康が、東の遠江に勢力を伸ばし浜松城を拠点にすると、最前線の地で武功を上げ出世していく浜松衆と、その後方支援にまわって岡崎城を守らなければならない岡崎衆の間には軋轢が生まれていきました。
さらに強大な隣国・武田氏の調略が、家康不在の岡崎を狙います。
家康が浜松城に居城を移してから5年後の、天正3年(1575)には、算術の才を買われて岡崎町奉行にまで出世した大賀(大岡ともいわれる)弥四郎が、岡崎城に武田軍を引き入れようと画策したクーデターが発覚。
また、家康の叔父である水野信元が武田家との内通を疑われて命を落とします。
さらに天正7(1579)年には、家康の正室・築山殿と嫡男・信康の武田家への内通が発覚し、家康は泣く泣く2人を処刑しなければならなくなりました。
こうした事件の背景には、岡崎と浜松との間のギクシャクとした関係性があり、そこに強敵であった武田が抜け目なくつけ込んだのではないかと考えられています。
生涯で一度も怪我をしなかった家康の親衛隊長・本多忠勝
忠勝の猛将ぶりを伝えるエピソードには枚挙に暇がありません。
家康3大危機の2つ目(1つ目は三河一向一揆)に数えられる元亀3(1572)年の三方ヶ原の戦いの前哨戦である、一言坂の戦いにおいて、忠勝は武田軍に追撃を防ぎきる活躍をしました。
これに驚いた武田の兵が「家康に過ぎたるものが2つあり、唐の頭に本多平八」と言って囃し立てたと伝わっています。
ちなみに「唐の頭」とは、家康が愛用していた珍しいヤクの毛があしらわれた兜のことです。
また、秀吉との直接対決となった天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いにおいては、わずか数百の兵で駆けつけた忠勝が、数万の秀吉軍を前に悠々と河原で馬に水を飲ませる姿を見せつけるなどして挑発。
のちに秀吉から天下無双の勇士と称えられています。
忠勝は勇猛だっただけではなく、冷静さも持ち合わせていました。
家康3大危機の3つ目となる天正10(1582)年の伊賀越では、本能寺の変で信長が討たれたことを知り動揺する家康を諌め、なんとかして三河へ戻り、態勢を整えようと進言してこの危機を乗り越えるなど、生涯にわたり家康の信頼厚い側近の一人として活躍しました。
「ただ勝つのみ」という願いを込めて名付けられたといわれる本多忠勝は、家康の祖父である松平清康や父の松平広忠に仕えた本多忠高の長男として、現在の岡崎市西蔵前町に産まれました。
この地に建てられている記念碑は、大正4年に忠勝の子孫・本多忠敬氏によって建立されたものです。
所在地/岡崎市西蔵前町字峠
家康から「康」の字を与えられた智将・榊原康政
康政は続く、家康3大危機の1つ目、永禄6(1563)年に起きた三河一向一揆で初陣を果たすと、忠勝とともに大活躍をして、家康から「康」の字を与えられました。
忠勝と同様、家康のほとんどの戦いに参陣していますが、康政の手柄として有名なのは、元亀元(1570)年に織田・徳川連合軍が浅井・朝倉軍とぶつかった姉川の戦いでしょう。
戦いを優位に進めていた浅井・朝倉軍に対し、康政は姉川の下流を迂回して朝倉軍の側面を突くことで形勢を逆転させ、織田・徳川連合軍を勝利に導きました。
また、天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いでは、兵力に勝る秀吉軍に対して、秀吉を誹謗中傷する檄文を送り挑発し、冷静さを失わせた上で局地戦に持ち込んで勝利を得るなど、智略を用いた活躍で家康を支えました。
その後、文禄元(1592)年からは家康の三男・秀忠の下に派遣され、若い秀忠の補佐役にまわります。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは、信濃の上田城攻めに手間取り遅参した秀忠と家康の関係にヒビが入ってしまいますが、康政が2人の間を取り持ち仲直りを実現させたことから、秀忠は康政が亡くなるまでそのことを恩に感じていたといわれています。
四天王を中心にして、家臣の統制を図った家康
家康以前の松平家では、代々跡目相続の際に家中が割れ、紛争になることが度々あり、それが原因で勢力を大きく伸ばすことができずにいました。
家康はこの状況を打破するため、東三河に酒井忠次、西三河に石川数正という内政・外交面に長けた人材を旗頭(家老)として置き、自分の周りを守る旗本に勇猛果敢な忠臣である本多忠勝や榊原康政といった人材を置いて家臣団の統制を図ったのです。
その後、家康は遠江(静岡県西部)・駿河(静岡県中部)へと勢力を拡大するに伴い、滅ぼしていった今川氏や武田氏の家臣たちを自らの家臣団に取り込み、さらに小田原北条氏滅亡後、秀吉によって関東へ移封された際には北条氏の遺臣まで取り込んで、家臣団を拡大していきますが、家康の側にはいつも三河譜代の誰かが控えていました。
三河譜代の家臣たちの活躍ぶりについては「三河武士のやかた家康館」でさらに詳しく知ることができますので、ぜひ見学してみてはいかがでしょうか。
本記事の監修
本記事は、2023年大河ドラマ「どうする家康」において時代考証を担当された、平山 優氏の監修のもと、制作されています。
平山優(ひらやま・ゆう)
昭和39(1964)年東京都新宿区生まれ。立教大学大学院文学研究科博士前期課程史学専攻(日本史)修了。専攻は日本中世史。山梨県埋蔵文化財センター文化財主事、山梨県史編纂室主査、山梨大学非常勤講師、山梨県教育庁学術文化財課主査、山梨県立博物館副主幹を経て、現在山梨県立中央高等学校(定時制)教諭。2016年放送のNHK大河ドラマ「真田丸」、2021年の映画「信虎」、2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」の時代考証担当。主要著書に、『戦国大名領国の基礎構造』(校倉書房、1999年)、『川中島の戦い』上・下巻(学研M文庫、2002年)、『天正壬午の乱 増補改訂版』(戎光祥出版、2015年)、『長篠合戦と武田勝頼』、『検証長篠合戦』(吉川弘文館、2014年)、『武田氏滅亡』(角川選書、2017年)など多数。