徳川十六将

大永7年(1527)、酒井左衛門尉忠親の二男として井田城内に生まれる。永禄8年(1565)、吉田城主となり、家康のゆくところ、必ず白字に朱丸の旗指物が翻り、惣先手大将として武勇を轟かせた。天正3年(1575)の長篠合戦には、鳶巣山の奇襲を信長に進言し、武田軍の退路を断って、織田・徳川連合軍の勝利を不動にした。
 天正16年(1588)家督を長子家次に譲り京都に隠居。慶長元年(1596) 10月、70歳で没した。

                                                                                       
 
本多忠高の長子として、天文17年(1548)、西蔵前に生まれる。永禄3年(1560)の桶狭間戦に13歳で初陣し、以来、常に家康の旗本にあって戦功を挙げ、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と謳われた。槍術が抜群で「蜻蛉切り」の槍は有名である。生涯、50数度の戦いで一度も負傷 したことがなかったと伝えられる名将である。
天正18年(1590)関東移封では、上総大多喜城主10万石を与えられた。
慶長15年(1610)10月、桑名にて63歳で没した。
天文17(1548)、上野城内(現豊田市)に生まれ、13歳より家康の近習として仕えた。三河一向一揆に初陣し、三河・遠江の平定戦より小牧・長久手戦に至るまで、軍団指揮の武将として大いに活躍した。小牧戦の初め、秀吉の悪逆を非難した檄文を触れ回し、激怒をかったが、その後秀吉は、康政の家康への忠節をほめたたえたという。
天正18年(1590)の関東移封では、上州館林10万石を与えられた。慶長11年(1606)5月、館林にて59歳で没した。

 
永禄4年(1561)、遠州井伊谷に生まれる。直政は家康のもとで徐々に頭角を見せ始め、天正4年2月7日、武田勝頼との遠江芝原の陣で初陣を飾った。
武田氏滅亡後、その家臣、山県昌景の「赤備え」を譲り受た。直政率いる「赤備え」の軍団は、高遠城への出陣を手始めに、天正12年の小牧長久手戦、 同年の蟹江城攻め、天正10年の信濃上田城の真田攻め、関ヶ原合戦などで武功をあげた。
天正18年(1590)、関東移封では、上野国箕輪12万石を与えられた。慶長7年(1602)42歳で没した。
 
松平政忠の長男として、天文15年(1546)、長沢城内に生まれる。母は家康の祖父清康の女、妻は家康の妹矢田姫で、家康とは従兄弟。義兄弟の間柄でもある。三河・遠州攻略に軍功を挙げ、長篠合戦には 酒井忠次と共に鳶巣山奇襲に手柄をたてた。天正6年(1578)より、家康の長子信康の家老として仕えたが、信康自刃後は再び家康に仕えた。
天正18年(1590)、嫡子康直が武蔵深谷で1万石を与えられた。元和4年8月、73歳で没した。
天文11年(1542)、坂崎(現幸田町)に生まれ、坂戸村にて養育された。6歳のときより熱田・駿府での家康の人質生活に従い、長じて家康の三河平定後には、信康の 後見役を務めた。信康自刃の衝撃を最も深く受けたといわれる。
天正10年(1582)甲斐国郡代となり、続いて天正18年(1590)の関東移封には、上野国厩橋3万3千石を領した。その後、尾張義直の伝役として犬山城主となり、名古屋城 築城に励んだが、慶長16年(1611)71歳で没した。家康8男仙千代を養子に迎えたが早世し、家は絶えた
勇将大久保忠員の長男として、天文元年(1532)、上和田郷に生まれる。若年より終始徳川家のために忠誠を尽くしたが、なかでも永禄6年(1563)の一向一揆には、一族を集結して家康を助け、 また元亀3年(1572)の三方原敗戦の際、犀ヶ淵に武田軍を夜襲して敵の心胆を奪ったことなどが知られている。
家康の関東移封により小田原藩4万石を領したが、文禄3年(1594)9月、63歳で没した。 子孫は小田原藩7万7千石。
天文8年(1539)渡城主・忠吉のことして生まれる。今川氏の人質となった家康に小姓として仕えた。姉川・三方原・長篠の戦などに戦功をあげ、家康の信頼も厚かった。
本能寺の変後、甲斐に討入り北条軍を破り、郡代となる。家康の関東移封後、下総矢作4万石の城主となったが、慶長5年関ヶ原の合戦では伏見城の留守を預かり、西軍石田三成の 猛攻を10日間にわたって食いとめ、800余人の城兵と城を枕に壮絶な戦死を遂げた。子孫は下野国壬生藩3万石。
渡辺家23代目として、天文11年(1542)占部(浦部)に生まれる。豪勇の士で、永禄5年(1562)9月の赤坂の戦いには、味方に利なく敗戦は必至であったが、守綱1人取って返し戦うこと10度、 功名の槍3度あげ、遂に味方を勝利に導いて「槍の半蔵守綱」と呼ばれた。
一向一揆には家康と争うこととなったが、終結後は再び家康の家臣となり、足軽100人の大将として活躍した。慶長15年、寺部(現豊田市)に陣屋をおき1万5千石を領した。 元和6年4月、79歳で没した。
大永6年、上野城主(現豊田市)内藤義清の甥として生まれた。家康家臣の中でも屈強の強弓で知られている。
一向一揆にはその弓によって一揆の隊長・矢田作十郎を逃走させ、牛窪合戦では 敵騎の鞍を射抜き、勇名を馳せた。また、6本の矢で6人を射倒したり、1矢で2人の敵を貫いたという武勇伝も多い。
家康の関東移封後、武蔵埼玉郡で5千石を所領。慶長7年4月、76歳で病没した。
大永5年(1525)、西牧内に生まれる。刈谷城主水野氏に仕えていたが、やがて織田氏に属し、家康の家臣となったのは、天正10年(1582)の本能寺の変後、清秀57歳の老年のときであった。
姉川・長篠の合戦など、常に一番槍の武勇を挙げ世に知られ、参戦参謀としても優れていた。
家康の関東移封後、武蔵・相模国の内、5千石を与えられた。慶長15年(1610)7月、86歳で没した。 子孫は河内国丹南藩1万1千石。
天文11年(1542)、家康と時を同じくして生まれる。永禄12年(1569)の掛川城攻めや高天神攻めに歴戦し、三方原合戦には伊賀者150人を預けられて活躍した。天正10年(1582)伊賀越えの危機には、伊賀忍者を率いて案内役を務め、家康の危機を救った話は有名である。
天正18年(1590)、関東移封によって与力30騎・同心200人を与えられ、8000石の旗本として江戸城半蔵門の守備を命じられた。慶長元年(1596)11月、55歳で没した。子孫は久松松平家の家臣となった。
大久保忠員の2男として、天文6年上和田郷に生まれる。15歳の初陣以来、その戦功は数を知らず、特に天正3年(1575)の長篠合戦での、めざましい戦いぶりが織田信長の目にとまり、「長篠の髯」 とほめそやされた。
その豪勇ぶりは、「白刃矢石の間を馳走して、着するところの武具しばしば斬破らるるといえども、遂に創を被らず」と称され、関ヶ原の合戦後駿河沼津2万石を領した。 慶長18年(1613)9月、77歳で没した。しかし、その子忠兼に跡継ぎがなく、絶家となる。
16将の1人、鳥居元忠の弟の忠広ではないかと考えられているが、定かではない。忠広とすれば、兄と共に家康に仕え、軍艦として戦場に臨むごとに軍功をあげた武将である三方原の戦いでは、武田方の武将・土屋右衛門直村の冑を砕いて落馬さたが、自らも討たれ法蔵寺に葬られた。
大永4年、米津村(現西尾市)に生まれる。家康の父広忠の時より仕え、天文18年(1549)の安城城攻めをはじめとして、桶狭間、一向一揆戦に功名をあげている。
常春の名は、家康の三河攻略に槍を使っての奮戦ぶりが伝えられているが、以後記録の上から全く姿を消している。慶長17年(1612)11月、89歳の高齢で没した。 米津家は、常春の弟政信が継ぎ、子孫は出羽国村山郡長瀞藩1万2千石を領した。
天文8年(1539)、六名村に生まれる。桶狭間の合戦には、家康の丸根城攻めに従軍。以来、西三河の平定に数々の軍功をたてた。しかし、永禄6年(1563)の一向一揆には、家康に反旗を翻し、針崎の勝鬘寺に立てこもり、家康軍を悩ませた。
一揆終結後、帰順を許され、東三河の平定戦に活躍。永禄7年(1564)、吉田城攻めに先陣をつとめ奮戦し、26歳の若さで討死する。