三大危機

永禄6年(1563)の秋、三河で、一向一揆がおきた。三河では古くから浄土真宗信仰が盛んで、15世紀後半には蓮如布教により本願寺派教団が成立し、一向宗(真宗本願寺派)の勢力地盤であった。
三河一向一揆は、家康の家臣が一向宗寺院の不入権を無視して、兵糧米を徴収しようとしたことに対し、一向宗門徒が反発したために起こったといわれる。
 
■一揆側
  • 土呂本宗寺や三河三か寺といわれた 佐々木上宮寺・針崎勝鬘寺・野寺本證寺
  • 東条城の吉良義昭などの武士
  • 家康家臣の本多正信・蜂屋貞次(のちの徳川十六将)
■家康側
  • 満性寺
  • 妙源寺
  • 浄珠寺
  一揆方と家康の戦いは、翌年2月まで断続的に続き、3月に至り和議が成立した。

一向宗禁制

三河一向一揆平定後の永禄7年(1564)5月、家康は一向宗方に改宗を命じた。これにともない寺院や道場は破壊し、坊主を追放した。勝鬘寺了顕は信濃井上へ、上宮寺の勝祐・信祐親子は尾張苅安賀に退去した。 武士門徒の多くも転宗した。以後、20年間三河では一向宗は禁止された。
三河で一向宗は赦免されるのは天正11年(1583)で、それには家康の伯母にあたる妙春尼(妙西尼ともいう、於大の姉、石川日向守家成の母)の熱心な働きかけがあった。しかし、この時還住が許されたのは 一般の寺院・道場で、一向一揆の中心となった上宮寺・勝鬘寺など7か寺については認められず、それが許されたのは同13年になってからである。

元亀2年(1571)10月、武田氏と敵対していた北条氏康が没した。あとをついだ氏政は親武田派であり、家康・謙信と手を切り、信玄と手を結ぶこととなった。これにより、信玄は相模・武蔵方面 にさいていた軍備を遠江に投入でくるようになった。
信玄は、翌3年西上作戦を開始した。10月3日に甲府を発した信玄は、遠江二俣城を包囲、開城させるなどして、12月22日家康の居城浜松に迫った。
その軍およそ2万7000対する家康勢は、信長からの援軍3000を含め約1万であった。
信玄の大軍は、浜松城へは攻めかからず、北にひろがる三方原の台地に上った。家康軍を三方原におびき出す作戦に出たのである。
午後4時ごろ始まった戦いは約2時間続き、徳川方の惨敗で終わった。家康はほうほうの態で浜松城に逃げ帰ったといわれています。
天正10年(1582)5月、家康は駿河国拝領の御礼言上のために安土の信長のもとに穴山信君とともに赴いた。そして、信長より京都・奈良・堺の見物を勧められ、京都・大坂をまわって 5月29日堺に入った。
6月2日黎明、本能寺で明智光秀の急襲をうけて信長が死ぬと、それを知った家康一行は京都に上ると称して堺を出発し、急遽帰国の途についた。三河への最短経路である伊賀越えの間道を 通ることになり、近江信楽で一泊、ついで伊賀柘植から加太をこえて伊勢関に出、白子から船に乗り、4日朝三河大浜につき、その日に岡崎に帰着した。
わずかな供の兵しか持たない家康にとっては危険があり、家康の生涯のなかでも最大の危機のひとつと言われた。この伊賀越えには京都の豪商茶屋四郎次郎清延や伊賀国衆の家康への協力があった。