岡崎ってこんなまち

三河譜代

松平氏を主君として代々従った家臣を三河譜代と呼んでいる。近世の三河譜代は、家康が三河に在城していた時代に服属した家臣をいうが、狭義には清康時代までに服属した家臣をさす。
『三河物語』では 清康時代までに服属した三河譜代について、その家臣になった時代によって安城譜代・山中譜代・岡崎譜代の三つに分けている。安城譜代とは、松平親忠の安城分立から清康の岡崎移転に至るまでに服属した家臣をいい、 山中譜代は、清康画山中城を本拠とする岡崎松平家の信貞を追った際に吸収した家臣、そして、岡崎譜代は、清康が岡崎に本拠を移してから服属した家臣をいう。ただ、『三河物語』の分類は安城松平家の家臣団を中心としてなされたもので、三河譜代全体を分類把握できるものではない。
三河譜代のなかの筆頭は酒井氏である。酒井氏の祖とされる広親は、親氏が松平郷に入る前に三河の酒井郷(場所不定)でもうけた子とされる。この松平氏の庶子伝承の真偽は定かでないが、古くから酒井氏が松平氏と関係を持ったことは確かなようである。
酒井氏には、雅楽頭家と左衛門尉家の2系がある。雅楽頭家には家康家臣で永禄4年(1561)に西尾城主となった正親(はじめ政家)がいる。正親の子孫はのちに播磨国姫路藩主となる。左衛門尉系は、井田城を居城とし、同系からは三河時代の若き家康の右腕となって働いた忠次が出る。忠次は、東三河平定時に家康から吉田城を与えられており、その子孫は、出羽国鶴岡藩主となっている。
 
石川氏は下野国から三河国碧海郡小川(安城市)に来往したという所伝をもつ。松平氏には、来住者政康の3男親康が仕えたのがはじまりという。
石川氏は一向宗の信者として知られる。天文18年4月の本證寺門徒の連判状には石川氏一族の名が多く見られ、その筆頭には石川忠成が署判している。 一向一揆の時にも一族の多くが一揆方に加わった。
忠成の別名は清兼ともいい、家康にとっては伯父にあたり、家康誕生の時には蟇目の役をつとめた。
また、忠成の子家成、忠成の孫にあたる数正は、西三河の旗頭をつとめた。
石川氏は、家成の子康通が関ヶ原の戦後に美濃国大垣 に封ぜられ、子孫は伊勢国亀山、常陸国下館の藩主となった。
大久保氏は下野国の宇都宮氏の末裔で、南北朝期に三河国碧海郡上和田(岡崎市)に来住したとされる。宇都宮氏から宇津氏、さらに大久保氏へと改姓したという。
忠茂は松平清康に仕えて大永4年(1524)、山中城攻略に功があった。忠茂の子忠俊は、天文6年(1537)、岡崎城を占拠していた松平信定を追放し、松平広忠を岡崎城に 帰還させた。一向一揆では、忠俊以下一族は上和田にあって一揆勢と戦った。
大久保氏は、家康が関東移封にともなって忠世が相模国小田原4万5000石、忠隣が武蔵国 羽生2万石に封ぜられるが、のち忠世の遺領を継いだ忠隣が慶長19年(1614)に改易となる。忠隣のもとにいた忠教は旗本に取り立てられ、『三河物語』の著書を残している。
本多氏は豊後国本多郷の出身とされる。松平氏との関係は、助時が泰親に仕えたのがはじまりという。助時の孫忠豊は天文15年(1546)の安城合戦で広忠の身代わりで 討ち死にし、その子忠高も同18年の安城合戦で戦死している。
忠豊・忠高の代には蔵前(岡崎市)に居住していたが、のちの忠勝の代に岡崎城東方の洞に移住したという。
また、助時の兄弟正時の二男信正にはじまる本多氏は、欠(岡崎市)にあって松代氏に仕え、子重正は大平(岡崎市)に居住、その子に本多重次がいる。
このほか土井(岡崎市)を居城とした本多氏に広孝がいる。広孝は家康に仕え、一向一揆の時は土井にあって奮戦、のち田原城攻めに功があって同城を与えられた。
本多氏は、広孝の子康重が関ヶ原合戦後に岡崎藩主、忠勝の子孫も18世紀半ばから岡崎藩主となっている。

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