岡崎ってこんなまち

徳川の前身、松平八代の歴史

15世紀初め頃の西三河に新しい武士の一家が出現した。加茂郡松平郷(現豊田市松平町)を本貫とする松平家である。
親氏は時宗の僧で徳阿弥(とくあみ)と称し、諸国を遍歴し、三河の地にたどり着いた。加茂郡松平郷の松平太郎左衛門信重の娘婿となり、跡目を継ぎ「松平親氏」と名乗った。
ここから松平、後の徳川家の活躍が始まったとされる。
松平2代泰親は、法名用金といい、親氏の子、または弟ともいわれる。岩津(岡崎市)に進出、岩津大膳を討ち、岩津城を奪取したという。
信光は大給(豊田市)保給(現岡崎市額田町)を攻め取り、寛正6年(1465)には額田郡牢人(丸山・大庭・尾尻・高力・芦谷)が井口砦(岡崎市井ノ口町)で起した一揆を鎮圧した。
応仁・文明の乱中には安城・岡崎の2城をも攻略した。領地の拡大とともに庶子を各地に分封、松平氏発展の基礎を固めた。
室町幕府将軍の御料所である額田郡において松平信光が勢力をのばすことができたのは、松平氏が室町幕府政所執事の伊勢貞親と被官関係にあったからであると考えられる。
親忠は、信光の3男で、当初鴨田郷(岡崎市鴨田町)に分立されていたが、文明の初年ころ安城城を譲られて移転、安城松平家の初代となった。のち、安城松平家が松平家惣領となるために、 信光についで松平8代の4代目とされる。
文明7年(1475)、鴨田に菩提寺大樹寺を創建。長享元年(1487)に麻生城の天野弥九朗を攻めたほか、明応2年(1493)には井田野合戦で松平方の指揮をとり、 松平一族内での信望を集め地位を高めた。
長親は親忠の子で、安城松平家の2代目にあたる。同家は松平惣領家となったために、いわゆる松平8代の5代目とされる。文明5年(1473)生まれで、初名は、長忠のち長親。
永正3年(1506)今川氏の三河侵入の時は、安城より出撃し、井田野で今川軍と対戦し、激戦の末これを退去させた。その後も続いた永正年間の大乱のなかで松平惣領家の岩津家が滅び、長親の安城家が惣領となった。
長親の子で、父から家督を継いで安城松平家3代目となる。松平氏の惣領となり、松平8代のうち6代目とされる。
『三河物語』によると、信忠は慈悲心がなく、暗愚であり、政務の手腕もなかったと記される。しかし、安城松平家の支配圏外であった大浜(碧南市)・坂崎(幸田町)・ 滝(岡崎市)・岩津(岡崎市)の寺院に禁制・寄進状が信忠によって出されていることをみると、信忠による同家の勢力拡大が知られる。
永正末年から大永初年にかけて家督をめぐって安城松平家の内訌が起こった。信忠を廃して弟信定を擁立しようとするもので、父長親も信定を偏愛したといわれ、家臣は 信忠派と信定派に分裂し争ったという。
安城松平家の信忠の子として永正8年(1511)に生まれた。大永3年(1523)、家督をついで安城松平家の4代目となり、松平氏の7代目惣領となった。同4年には 岡崎松平家の信貞と対立、同家の山中城を攻め落とした。さらに岡崎城をも明け渡させ、本拠を安城から岡崎に移した。
以後、三河統一をめざした清康の戦いが始まる。大永5年に足助の鈴木氏を攻め、享禄2年(1529)には吉田城の牧野氏をはじめ、東三河の戸田、設楽、西郷、本多、山家三方衆(作手奥平、長篠・田峯の菅沼)の各氏を帰服させた。さらに、同年に幡豆郡小島城(西尾市)の鷹部家氏を追い、同3年には八名郡宇利城(新城市)の熊谷氏、同4年には加茂郡伊保城(豊田市)の三宅氏をそれぞれ攻めた。
しかし、天文4年(1535)に織田信秀を攻略するために尾張守山に出陣したところ、家臣の阿部弥七郎に殺され、松平氏の三河領国支配は瓦解した。

~守山崩れ~
天文4年(1535)12月5日、清康は尾張守山の陣中で家臣の阿部弥七郎に殺された。弥七郎は阿部大蔵定吉の子で、父の謀反の流言によって処罰されるかもしれないと前夜聞かされており、 当日の朝、放れ馬による騒ぎに父が成敗されたと思い込み清康を殺したという。清康の死によって松平氏の三河支配体制は一挙に崩れた。世にこれを「守山崩れ」という。
『三河物語』は「清康三拾之御年迄モ、御命ナガラエサせ給ふナラバ、天下ハタヤスク納サせ給ンに、廿五ヲ越セラレ給ハで御遠行有社(コソ)、無念ナレ」と清康の生涯を評している。

清康の子で、母は青木貞景の娘。清康が殺された時10歳で、織田信秀の岡崎攻撃をよく防いでいたが、松平家の内紛により桜井松平家の信定によって 岡崎を追われ、阿部定吉ら僅かな家臣とともに伊勢・遠江を流浪した。天文6年(1537)駿河今川義元の援助とともに、大久保忠俊らの工作により岡崎に還住することができた。
広忠時代の松平氏は、西からの織田信秀の進出に対抗するために、今川義元を頼り、今川氏の一部将となった。織田氏の三河侵入が激化した天文9年には安城城が陥落、さらに、松平 一族の忠倫、家臣酒井忠尚が信秀に通じ、矢作川以西は織田方という状況になった。同11年と17年には小豆坂(岡崎市)で織田勢と今川勢が激突、11年の時は松平氏と今川氏ともに織田氏に 敗北したが、17年の時は織田氏に勝利した。
広忠は天文10年水野忠政の娘である於大と結婚し、翌年家康が生まれた。しかし、同12年水野氏が織田方になったために於大を離縁、翌年 田原城主戸田康光の娘真喜姫と結婚した。同18年織田方の佐久間全孝の刺客岩松八弥に岡崎城内で殺された。

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